「赤ちゃんが小さすぎる」と言われたとき、私の頭の中は真っ白になりました。
妊娠中の健診で突然突きつけられた“産むか産まないか”の選択。
戸惑い、涙が止まらず、それでも「何かできることはないか」と必死に情報を探しました。
今回は、私が自分で病院を探し、FGR(胎児発育不全)と診断された後、国立成育医療研究センターへ転院した経緯についてお話しします。
同じように、赤ちゃんの発育や妊娠の経過に不安を抱えている方の参考になれば嬉しいです。
突然の診断「このままだと成長が止まる…」
1番最初に通っていたのは関東労災病院。
健診の際、先生から伝えられたのは、思ってもみなかった言葉でした。
「赤ちゃんの成長が遅れています。このままだと成長が止まり、最悪の場合、伸びても120cmに満たないかもしれません…どうしますか?」
衝撃で頭が真っ白になり、涙が止まりませんでした。
「小さすぎるって、どういうこと…? 何をすればいいの? どうしますかって、まさか…」
目の前が真っ暗になり、不安だけが膨らんでいきました。悪阻も酷く仕事に行くのも辛い日々。毎日朝から晩まで涙が止まりませんでした。
自分で病院を探し、広尾の婦人科へ
関東労災病院の先生から言われたタイムリミットまでも時間がありません。泣いていても時間だけがただ過ぎていく。自分が出来る限りのことをお腹の中にいる赤ちゃんの為にしようと決めました。
「他の病院なら、もっとできることがあるかもしれない…!」
涙を流しながら、スマホでひたすら病院を検索。何軒も電話し、ようやく広尾の峰岸産婦人科にたどり着いた。
この病院なら、、この先生なら、、と信じ駆け込んだのが運命の病院、広尾の峰岸產婦人科です。
大きなモニターで今までで1番長くより詳しく検査してくれました。どんな結果が待ち受けているのか…緊張でより長く感じていたかもしれません。
検査を終え、峰岸先生はとても丁寧にそして優しく結果を私に伝えてくれました。
そこでは、関東労災病院とは違う見解があり、峰岸先生から「見せていただいたところ、確かに小さいですがこれから成長していくと思います。希望はあります。私の信頼のおける先生がいる国立成育医療研究センターを紹介できます」と言われました。
その言葉を聞いたとき、「私たちにはまだ可能性があるんだ」と思えました。夫にも何も告げずに独りで調べて調べて、最後の望みをかけてやってきたので、先生からの言葉を聞いてやっとなんとか息が吸えた気がしました。
峰岸先生には感謝してもしきれません。
病院の帰りにはしっかりと気持ちが固まりました。
『この子はきっと大丈夫。何があっても私は産むんだ』と。
国立成育医療研究センターへ転院し、FGRと診断される
紹介状を受け取り、国立成育医療研究センターへ。
そこで詳しい検査を受けた結果、FGR(胎児発育不全)と診断されました。
この診断を受け、今後の管理方法や、できる限り赤ちゃんをお腹の中で成長させるための方針が決まりました。このまま国立成育医療研究センターへ転院し、検診やFGR外来に通院、分娩もこちらでお願いすることになりました。
(※ 「FGR(胎児発育不全)」は、胎児の成長が遅れる状態で、早期に診断されると、より適切な管理や対応が可能です。など。)
ある日突然の緊急入院…荷物を取りに帰ることも許されず
しかし、その後の妊娠経過も決して順調ではありませんでした。
ある日、自宅で血圧を測ると異常に高い数値が。
「おかしい…」と思い、病院に電話すると、看護師さんの声はいつもより真剣でした。
「今すぐ病院に来てください」
慌てて病院へ行き、検査を受けることに。
「結果が出るまで少し時間がかかるので、待っていてくださいね」と言われたので、近くのカレー屋さんでランチをすることにしました。
「とりあえず何か食べないと…」とカレー屋さんに入ったけど、味が全然しない。頭の片隅では「大丈夫だよね?」「何かあったらどうしよう」と不安がぐるぐる回っていた。
まさかこれが妊娠中最後の外食になるとは、このときは思いもしませんでした。
病院に戻ると、先ほどとは違い、診察室の前に大勢の先生たちが待機していました。
「今すぐ入院しましょう」
突然の言葉に、「あ、じゃあ荷物を取りに家に…」と言いかけると、
「帰らせるわけにはいきません」
「……え?」
「もう、ここから出られません」
そんなにまずい状況なの?明日も仕事があるし、今日検査したら帰れるつもりだったのに。
「じゃあ、一度家に戻って荷物を…」と言いかけたけど、先生の表情は冗談じゃないと物語っていた。
その瞬間、やっと自分の置かれた状況の深刻さを理解した。
何も準備していないまま、私はそのまま入院。
着替えも、スマホの充電器すらないまま、私は出産まで病院のベッドの上で過ごすことになったのです。